認知症事故と損害賠償 介護現場に衝撃の判決
「ある判決」が介護の現場に衝撃を広げている。91歳(当時)の認知症の男性が線路内に入り、列車にはねられて死亡した事故。裁判所は遺族に対し「注意義務を怠った」として、鉄道会社に720万円を支払うよう命じた。認知症の老人は閉じ込めておけというのか−−介護関係者からはそんな怒りの声すら聞こえてくる。

JR東海から遺族が突然、手紙を受け取ったのは事故から半年後だった。<平成19年(2007年)12月7日に東海道線共和駅内(愛知県大府市)に人が入り、快速列車に衝撃し列車が遅れるという事故が発生しました。本件により弊社に別紙の通り損害が発生しております>。列車遅延による損害賠償の協議申し入れだった。

別紙には「損害額一覧表」として、事故に対応した職員の人件費、他社に振り替えた運賃、払戻金など720万円の内訳21項目が列挙されていた。受け取った横浜市在住の長男(63)は「正直、驚きました」と振り返る。

事故当時、男性は要介護4。介護なしでは日常生活が困難だったため、85歳(当時)の妻と、介護のために横浜市から近所に移り住んだ長男の妻が世話していた。男性が自宅を出たのは長男の妻が玄関を片付けに行き、そばにいた妻がまどろんだ一瞬のことだった。

要介護認定とは、被保険者が介護を要する状態であることを、保険者である市町村が認定するものです。被保険者の介護を必要とする度合いとして、最も軽度の要支援1(要支援は1〜2です)から最も重度の要介護5まで、7段階の介護度が設けられています。

それぞれの介護度によって、支給限度基準額といって、提供されるサービスに違いがあります。要支援1では、4970単位/月、要介護5は35830単位/月と、大きな開きがあります。

要介護4であると、かなり重度の介護を要する状態です。日常生活を遂行する能力はかなり低下しており、「入浴や排泄、着替えなどの全般にわたって全面的な介護が必要な場合が多いです。上記のケースであるような、徘徊を行ってしまわれる方、暴言・暴力などを振るう方もいます。


「手紙が届いた後、JRの要請で、かかりつけ医師の診断書と『認知症があり線路上に出たと考えられる』と認定した警察の死体検案書を送りました。重い認知症だった父に責任能力がないことはJRも分かってくれると思っていた。ところが、専門医の診断書ではないから疑いがあるなどと言ってきた」と長男。事故から1年後、JRから内容証明郵便で正式な賠償請求が届き、その後、裁判所を通じて不動産の仮差し押さえを申し立ててきた。こうした対応に「父の墓前に線香の一本でも上げてくれていたら……父をはねて殺しておいて」と怒りがこみ上げてきた。

JRはどのような基準で列車事故の損害賠償を請求しているのか。JR東海広報部は「責任の所在や事実関係を十分に調査の上、原因となった方や遺族に、車両の修理実費、特急料金の払い戻し、他社への振り替え輸送の費用や人件費の増加分など、明確に因果関係が説明できるものだけ請求しています」と回答する。

しかし、JRは「要介護認定4であっても病状を示すものではない」などと、責任能力があったと主張して提訴した。JR東海広報部は「損害の処理について繰り返し遺族の方に協議を申し入れたものの、残念ながら理解いただけず、熟慮を重ねた結果、裁判所の公平公正な判断に委ねることとした」とコメントする。

提訴から3年半。名古屋地裁(上田哲裁判長)が今年8月に出した判決は、男性の認知症は重く、事故当時の責任能力はなかったとJRの主張を退けた。ところが、その一方で、介護していた妻に「まどろんで目をつむり、夫から目を離していた」と過失による賠償責任を認めた。長男については「法定監督義務者や代理監督者に準ずる」と位置付け、民間施設やホームヘルパーを利用しなかったと指摘して賠償を命じた。

長男は「父親は住み慣れた自宅で生き生きと暮らしていた。行動を一瞬も目を離さずに監視することなど不可能。こんな判決が確定したら、子どもが親の面倒を見られなくなる。介護を頑張った者ほど責任が重くなるのは理不尽です」と訴える。遺族は高裁に控訴。今でも父親を在宅で介護して良かったと思っている。
認知症の人と家族の会(本部・京都市)の高見国生代表理事は「こんな判決を出されたら家族はたまったものではない。認知症の人はどこかに行きたい、ここを出たいと思い立ったら必死に出て行く。家族がどれほど注意していても徘徊(はいかい)は起きてしまう。家族の責任を問うべきではない。何らかの公的補償制度を検討すべきです」と訴える。

そもそも事故は防げなかったのか。現場の共和駅。駅員は日中2人、早朝と深夜は1人だ。高さ1・1メートルのホームの先端から線路に下りる階段があった。判決後、階段の柵は施錠されているが、事故当時は施錠されておらず、簡単に線路に下りられた。

遺族代理人の畑井研吾弁護士は「男性の自宅周辺には踏切など線路に入る場所はなく、柵を乗り越えて線路に入る体力もなかった。男性は現金を持っていなかったため、自宅前の大府駅の改札をすり抜けて列車に乗り、隣の共和駅で降り、ホーム先端の階段から線路に下りたとしか考えられない」と話す。この場合、駅員に遭遇するのは大府駅の改札1カ所だけだ。

大府駅改札で駅員に勤務態勢を尋ねた。「たまたま今は2人ですが、通常1人です。もうかつかつですよ」と苦笑した。改札は自動だが、切符売り場が併設され、駅員は横目で改札を監視しながら切符を売っていた。これでは人がすり抜けないか常に監視することは不可能だろう。大府駅と共和駅のホームには監視カメラが設置されていたが、駅員は常駐していなかった。

判決は男性がどのように事故現場の線路に入ったかは「不明」として判断を避ける。JR東海広報部は事故後の原因調査について「名古屋高裁に係属中であり、コメントは差し控えさせていただきます」としている。原因不明では再発防止策もおぼつかない。事故から9カ月後には、大府駅の隣の逢妻駅(愛知県刈谷市)でも認知症の女性(当時83歳)が列車にはねられて死亡した。


今回のケースで、重要と考えられるのは「民間施設やホームヘルパーを利用しなかったと指摘して賠償を命じた」といった点ではないでしょうか。

自宅で過ごすことで、安心感や温もりを感じられるだろう、と考えて、大変な自宅での介護を行っていたご家族です。大変なご苦労であったのではないかと思われます。ですが、「注意を怠った」と賠償命令を受けてしまわれています。

この賠償命令は、介護の現場にとっても、非常に大きな意味を持つと思われます。というのも、もし同様な事故が起きた場合、民間介護施設やホームヘルパーの責任が問われる可能性があるからです。特に民間介護施設では、「徘徊を行う方はお断り」ということにもなりかねないのではないでしょうか。ただでさえ、入所待ちとなっている時に、そのような拒否をされた場合、家族の介護負担が非常に重くなる可能性があります。

また、ホームヘルパーの方も、徘徊により事故が起き、その責任をとらされる可能性があれば、同様に拒否されるケースもあるのではないでしょうか。

まだ地裁判決であるため、なんとも言いがたい部分はありますが、介護の現場の現実も見据え、判決を出していただければ、と望まずにはいられません。