2007年12月14日放送の「中居正広の金曜日のスマたちへ」に徳永英明さんがゲスト出演していました。シンガーソングライターとして、現在もシンガーソングライターとして活躍している彼ですが、決してその道のりは平坦なものではありませんでした。

19歳で上京し、アルバイト生活。オーディションを受けながらデビューのきっかけを求めていましたが、なかなか陽の目をみることはありませんでした。そこで、TBS緑山塾に入ることになりました。

そこで、芸能界の厳しさや「努力をしている人が勝つ」ということを学び、喫茶店でアルバイトをしながら、デモテープ製作を行っていました。スタジオが近い喫茶店で働くことで、客が音楽関係者であると、すかさずデモテープを渡していたといいます。

その後、シングル『Rainy Blue』でデビュー。『輝きながら…』のヒットでブレイクしました。ですが、自身で作詞作曲も行っているため、他人が書いた曲でヒットしたことにジレンマのようなものを感じ、素直に喜べなかったとのこと。その後、曲を作る上でスタッフとの摩擦が生じ始めるようになり、1990年に事務所を独立しました。プライベートオフィス「マゼラン」を設立し、自分自身の歌いたい曲をようやく作れるようになりました。

ところが、1993年1月に声帯ポリープで手術を受けざるを得ず、その後に立て続けに咽喉炎や急性扁桃炎を患うことになります。そして、次第に手に力が入らなくなったり、異常な疲労感を感じたりするようになりました。

2001年、もやもや病のためコンサートツアー中に頭痛で崩れ落ちるように倒れてしまいました。その後2002年に、もやもや病を克服して再び活動を再開しました。


もやもや病とは、内頚動脈という脳を栄養している太い動脈が、頭蓋内に入って最初に血管を分岐する直前で、左右とも急速に狭窄ないしは閉塞する病気です。その結果、脳の血流を維持しようとして細い血管(側副血行路)をいくつも形成します。そのため血管撮影検査などで、まるで煙草の煙がもやもやとあるように見えるので「もやもや病」と言われるわけです。

もう少し具体的に言うと、ヒトの脳は、左右の内頸動脈と左右の椎骨動脈の合計4本の血管によって栄養されています。さらに、この4本の血管は、脳の底部で互いに繋がってウィリス動脈輪という輪っかを形成します。このウィリス動脈輪は、たとえ動脈が一本詰まっても、他の血管から血液が流れこむための安全装置として働いています。

内頚動脈が狭窄した結果、ウイリス動脈輪が機能せず脳血流が不足します。そのため、ウィルス動脈輪の近くの、本来は細いはずの毛細血管が多数拡張して、側副血行路を形成します(脳血流を維持しようとするため)。

何故かアジア系の人たちに多く、日本は最多で約3900人存在していると言われています。男女比は、1 : 1.8とわずかに女性優位であるといわれています。好発年齢は、5歳を中心とする小児型の高いピークと、30-40歳を中心とする成人の低いピークがあるといわれています。

症状としては、以下のようなものがあります。
小児で発見されるケースでは、脳虚血型といって脳の必要血流量が保たれなくなったときに症状を出します。ラーメンなど熱い物を吹きさましながら食べたり、泣くなどの過呼吸運動によって、手足の脱力、言語障害、意識障害などを呈することがあります。この場合、一過性であったり、ときには脳梗塞を起こす可能性もあります。

一方、徳永さんのように、成人の場合は出血型が多いと言われています。これは、出血の部位や程度により症状は様々です。出血型の症状は、一般に重篤であるといわれています。上記のように、頭痛や手の麻痺などにとどまる場合から、命に関わる出血も存在します。

治療法としては、脳虚血型の場合は脳血流改善剤などが投与されます。手術としては、脳血管バイパス術が有効であることが知られており、広く行われています。

一方、出血型は現時点で有効な治療法は残念ながらありません。ただ、脳血管バイパス術により毛細血管に対する血流負担を軽減し出血を予防できる可能性があるということがいわれています。予後は比較的良好といわれていますが、脳出血を起こした後に再出血した場合では死亡率が高いといわれています。死亡例の半数は脳出血であるといわれています。

こうした多くの苦境を乗り越えてきたからこそ、その歌に勇気づけられ、励まされる人も多いのではないでしょうか。もやもや病という、根治の難しい病気を患いながらも、頑張って活躍されている姿に、非常に大きな力強さを感じました。

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