少し前になるが、麻生首相が「医師は社会的常識がかなり欠落している人が多い」と発言して物議を醸した。首相の発言としては、もちろん不適切だが、私自身、医師の端くれとして、ある程度は当たっているなと思った。
社会的常識とは何ぞやという問題もあるが、多くの人は社会に出てから、それを徐々に身につけていくのだろう。叱られたり、忠告を受けたり、下げなくてもいい頭を下げたりするうちに、だんだんとわかってくる。
しかし、医師は国家試験に通ればすぐに「先生」と呼ばれ、いきなり一定のステータスを獲得する。周囲には患者や看護師や技師など、自分より立場の弱い人間ばかりしかいないし、事務員や業者に気を遣う必要もない。怖い先輩や教授はいるが、彼らが社会的常識に欠けていることも多いから、それを学ぶのはむずかしい。
収入面でも恵まれているし、失業の心配はほぼないし、人前では職業を名乗るだけで、表面上の敬意を得ることもできる。
二十代半ばでそういう環境になれば、いくら激務をこなし、命を預かる重責に耐え、医療ミスに対する緊張を持続させても、「社会的常識」は身につかないだろう。
もちろん社会的常識を備えた立派な医師もいる。しかし、どちらかと言えばそれは特例で、基準にしてはいけない。病気や障害という人の不幸を多く目の当たりにしながら、常に安全な場所にいることの多い医師は、ある種、人格形成には恵まれない職業である。(医師・作家 久坂部羊)
(【コラム・断】医師に「社会的常識」はあるか)
このコラムを読んでいて、悲しくなった。少なくとも、医師である人がこうした誤解を与えるような、そして思い上がったような文章を書いている、という事実がやり切れなかった。
上記に「社会的常識は、叱られたり、忠告を受けたり、下げなくてもいい頭を下げたりするうちに、だんだんとわかってくる」といったことが書かれているが、これはもっともであると思う。学校生活の中で、狭い世界であまりにも物事を知らず、その狭小な世界の常識のまま世間に出ていくと、辛い思いや苦しい思いをする。その中で、色々と学んでいけることがある。その一部が「社会的常識」ということは賛同できると思う。
一方で、上記では「医師はそうしたことを学ぶことができない」という主旨が書かれており、そのために社会的常識を学ぶことができない、と結論づけているようだ。だが、本当にそうなのかな、と思う。その理由としては、以下のようなものがあると思われる。
さらにいえば、「自分より立場の弱い人間」などといった驕り高ぶった言葉が出てくるのも疑問だ。チーム医療という考えのもと、他の職種の人たちと連携していかなければ最良の医療は行えない。そのことを踏まえれば、おくびにも看護師、技師さんのことを上記のような形容はできないと思う。
また、
最後の
民間企業を取り巻く状況も厳しいのは明らかだが、医療の現場でも多くの人が悩み、知恵を出し合って仕事に当たっている。そのことは是非ともご承知いただきたい。
社会的常識とは何ぞやという問題もあるが、多くの人は社会に出てから、それを徐々に身につけていくのだろう。叱られたり、忠告を受けたり、下げなくてもいい頭を下げたりするうちに、だんだんとわかってくる。
しかし、医師は国家試験に通ればすぐに「先生」と呼ばれ、いきなり一定のステータスを獲得する。周囲には患者や看護師や技師など、自分より立場の弱い人間ばかりしかいないし、事務員や業者に気を遣う必要もない。怖い先輩や教授はいるが、彼らが社会的常識に欠けていることも多いから、それを学ぶのはむずかしい。
収入面でも恵まれているし、失業の心配はほぼないし、人前では職業を名乗るだけで、表面上の敬意を得ることもできる。
二十代半ばでそういう環境になれば、いくら激務をこなし、命を預かる重責に耐え、医療ミスに対する緊張を持続させても、「社会的常識」は身につかないだろう。
もちろん社会的常識を備えた立派な医師もいる。しかし、どちらかと言えばそれは特例で、基準にしてはいけない。病気や障害という人の不幸を多く目の当たりにしながら、常に安全な場所にいることの多い医師は、ある種、人格形成には恵まれない職業である。(医師・作家 久坂部羊)
(【コラム・断】医師に「社会的常識」はあるか)
このコラムを読んでいて、悲しくなった。少なくとも、医師である人がこうした誤解を与えるような、そして思い上がったような文章を書いている、という事実がやり切れなかった。
上記に「社会的常識は、叱られたり、忠告を受けたり、下げなくてもいい頭を下げたりするうちに、だんだんとわかってくる」といったことが書かれているが、これはもっともであると思う。学校生活の中で、狭い世界であまりにも物事を知らず、その狭小な世界の常識のまま世間に出ていくと、辛い思いや苦しい思いをする。その中で、色々と学んでいけることがある。その一部が「社会的常識」ということは賛同できると思う。
一方で、上記では「医師はそうしたことを学ぶことができない」という主旨が書かれており、そのために社会的常識を学ぶことができない、と結論づけているようだ。だが、本当にそうなのかな、と思う。その理由としては、以下のようなものがあると思われる。
医師は国家試験に通ればすぐに「先生」と呼ばれ、いきなり一定のステータスを獲得する。周囲には患者や看護師や技師など、自分より立場の弱い人間ばかりしかいないし、事務員や業者に気を遣う必要もない。たしかに、年上の看護師さんや放射線技師の方々も、卒業したての研修医に「先生」と呼び、表面上は一定の気を遣ってくれたりはする。だが、それもあくまでも表面上のものであり、右も左も分からないような状態の研修医を本気で敬ってくれているわけがない。親身になって患者さんのために最良の医療を提供する姿を見せることができたとき、ようやく敬意を得られると考えられる。
さらにいえば、「自分より立場の弱い人間」などといった驕り高ぶった言葉が出てくるのも疑問だ。チーム医療という考えのもと、他の職種の人たちと連携していかなければ最良の医療は行えない。そのことを踏まえれば、おくびにも看護師、技師さんのことを上記のような形容はできないと思う。
また、
収入面でも恵まれているし、失業の心配はほぼないし、人前では職業を名乗るだけで、表面上の敬意を得ることもできる。二十代半ばでそういう環境になれば、いくら激務をこなし、命を預かる重責に耐え、医療ミスに対する緊張を持続させても、「社会的常識」は身につかないだろう。こうしたことも、現状に即しているだろうか?マスコミによる医療界のバッシング、医療訴訟の増加など、医師を取り巻く現状は厳しいものだ。もはや、胡座をかいて尊大な態度で居られることはないと考えられる。
最後の
もちろん社会的常識を備えた立派な医師もいる。しかし、どちらかと言えばそれは特例で、基準にしてはいけない。病気や障害という人の不幸を多く目の当たりにしながら、常に安全な場所にいることの多い医師は、ある種、人格形成には恵まれない職業である。も、ひどい暴論だ。少なくとも、この筆者が社会的常識を備えた立派な医師ではないということは分かる。患者さんの視点に立ち、苦しみ、悩みながら日頃の業務を行って入れば、「常に安全な場所にいる」などといったことは絶対に言えない言葉だろう。
民間企業を取り巻く状況も厳しいのは明らかだが、医療の現場でも多くの人が悩み、知恵を出し合って仕事に当たっている。そのことは是非ともご承知いただきたい。