以下は、ザ!世界仰天ニュースで扱われていた内容です。
個性と才能に溢れたキャラクター、ピーコ。1989年、突然病魔に襲われ運命が大きく変わった…。昭和20年、日本が終戦を迎える7か月前、ピーコは生まれ、もちろんおすぎも同日に弟として誕生。本名・杉浦克昭。おすぎは孝昭。彼らには二人の姉がいた。

13歳年の離れた上の姉はいつも明るく面倒見が良く、下の姉は、「脊椎カリエス」という難病であまり動けずにいたが、器用で優しく、姉たちは二人の憧れの存在だった。物心つく頃には女の子とばかり遊び自然と女性らしくなっていったおすぎとピーコ。そんな二人を両親はとがめるどころか心から可愛がった。高校を卒業し二人は別々の道へ。

おしゃれが好きだった克昭(ピーコ)は都内の老舗アパレルメーカーに勤務。とにかくしゃべってピーピーうるさい彼は、この頃から“ピーコ"と呼ばれるようになった。一方、映画が好きだった孝昭(おすぎ)はテレビドラマの制作会社で勤務。

1975年春、孝昭から克昭に、「女優用の衣装を作ってくれないか」と電話が来た。これを機に孝昭が窓口となり、女優たちが次々と衣装を注文。撮影現場では地味な裏方として重宝がられる一方、話術に長けた双子の会話は面白く、女優たちやスタッフからの推薦もあり、1975年30歳の秋、芸能界デビューした。当時隠微なイメージだったゲイというカミングアウトも堂々とするお喋りな双子として大ブレイクした。

1980年春、35歳。仕事が増えるにつれ、互いの不満も増していった。ある時遂に大ゲンカに発展し、この時、淡谷のり子からも大目玉を食らった。これを機に二人は、同じ現場で顔を合わせるのはやめようと決め、おすぎは映画評論家に、ピーコはファッション評論家となった。

仕事も順調に運んでいたところ、ピーコさんに以下のような症状が現れてきたそうです。
1989年2月、44歳。ピーコはいつものように原稿を執筆していたある日、目の違和感を感じた。原稿用紙の横の線の位置が分からず、左目がかすんだ。突然の症状。しかし、痛みもなく仕事も忙しかったため、そのままにしてしまった。

6か月が過ぎた8月7日、二人は年に一度の健康診断を受けることに。静岡県熱海市にある熱函病院。院長が知り合いだったこともあり、温泉旅行もかねて毎年来るようになっていた。二人とも内臓などの異常はなく、一安心したときだった。以前からピーコの目の不調を聞いていたい院長の奥様の勧めで、急遽たまたま居合わせた眼科医に目を診てもらう事に。すると診断は意外なものだった。

「網膜剥離の可能性」すぐに手を打たなければ、左目は失明と宣告。一刻も早く設備が整った医療機関での再検査が必要とのことだった。左目が失明…。実はおすぎも以前、左耳の鼓膜が破れ、聞こえない状態になっていた。二つあるものが一つになる辛さをよく知っていた。

翌日、早速小田原市立病院へ。眼科の権威である佐伯医師により検査が始められた。造影剤を注射、造影写真が何枚も撮られていく。やがて医師から「メラノーマ」という声を聞き、ピーコはすぐに自分がガンだと悟った。

別名「悪性黒色腫」。皮膚ガンの一種で、メラニンをつくる細胞であるメラノサイトが悪性化し腫瘍となる。ピーコの場合は、眼球の後ろ側の網膜を覆っている脈絡系に発症。腫瘍が広がり網膜を大きく引き伸ばしていた。

目の中にできるのは30万人に一人という珍しいケース。球眼のリンパ管に腫瘍が入り込めば体中に転移する危険があり、視神経に達していれば死は免れない。ピーコの腫瘍は1.4cmもあり、眼球を全摘出しなければ命にかかわる。医師は言った。「私の仕事は目が悪い人の目を見えるようにすること。まだ見える目を摘出するのは本望ではないが、そうしないと命が危ない。だから私は摘出を勧めるんだよ」その医師の言葉に、ピーコは手術をすることに即決した。

メラノーマは、メラニン色素を作る細胞であるメラノサイトが癌化によって生じる悪性腫瘍です。多くは黒褐色の病変として皮膚に生じてきます。ホクロと似た形状であるため、放置してしまうケースがあり、その間に進行してしまい、問題となります。

国内で年間1,500人〜2,000人が発症し、転移すると90%が5年以内に死に至るといわれており、転移を生じやすく、きわめて悪性度の高い腫瘍であることが分かるかと思われます。

頻度としては、世界的に増加傾向が著しいがんの1つであるといわれています。その誘因の1つに、過度の紫外線照射が挙げられています。

ちなみに、皮膚以外にも口腔・鼻腔粘膜、脈絡膜、脳軟膜からも発生します。ピーコさんのケースでは、この脈絡膜に悪性黒色腫が発生していたそうです。眼球内に発生する悪性腫瘍としては、網膜芽細胞腫、脈絡膜悪性黒色腫、転移性腫瘍、悪性リンパ腫などがあります。

脈絡膜悪性黒色腫は、脈絡膜に原発した色素細胞の悪性腫瘍であり、網膜下に黒色の病変がみられ、続発性網膜剥離を伴うことがあります。また、増大すると網膜表面に出血、硝子体出血を生じることがあります。ただ、稀に色素がない型(無色素性悪性黒色腫)もあります。

そもそも、眼球の壁の中層は、後方から脈絡膜、毛様体、虹彩の3つからなります。外側は眼球線維膜(強膜)、内側は網膜に挟まれている部分です。血管と神経に富み、多量のメラニン色素を含んでおり、黒褐色をしています。

この中膜をぶどう膜と呼んだりもして、ここに発生する悪性黒色腫を、ぶどう膜悪性黒色腫と呼びます。さらに、中でも脈絡膜に発生する悪性黒色腫を、脈絡膜悪性黒色腫と呼んでいるわけです。

症状では、視力障害で発症し、眼底検査で腫瘤を発見することが多いです。

診断では、細隙灯・検眼鏡所見が重要であり、症例に応じ蛍光眼底検査、超音波、CT、MRI、核医学検査などを行います。

超音波検査で充実性腫瘍に特徴的な所見があると、診断的価値があり、腫瘍の大きさを計測して記載し、経過観察や治療効果判定の材料とします。上記では蛍光眼底造影検査なども行われ、この検査では腫瘍内の血管の状態が把握できます。

治療としては、以下のようなものがあります。
1989年8月21日、小田原私立病院。手術前夜、なかなか寝付けないピーコの目に、意外な風景が飛び込んできた。それは花火だった。ピーコは左目から最後の涙を流した。こんなに花火を美しいと思ったことはなかった。

翌22日、手術当日。眼球の摘出は脳からつながる視神経を切断し、6か所の筋肉も断ち切る。2時間に及ぶ大手術。手術は成功したが、病理検査の結果がでるまでは、ガン転移の恐怖が続いた。そして術後直に始めなくてはいけないことがあった。それは義眼を入れること。まぶたの筋肉が目を塞いでしまうため、すぐに義眼を入れなければならなかった。

そんな彼のもとへ親友である女優、吉行和子は毎日お弁当を2つ持ってお見舞いに来てくれた。改めて人の温かさを噛み締めるピーコであった。 一週間後の検査結果の日、幸いガンは転移していなかった。

今ではトレードマークとなったメガネも、義眼となって初めての仕事から使用するようになった。辛口のしゃべりは以前と変わらず、逆に厳しさを増したかもしれない。しかし左目を失ってから、眼の病に苦しむ人達やその家族が集う講習会に参加し、多くの人に希望を与えたいと思うようになった。

治療としては、保存療法として放射線、光凝固、冷凍凝固、局所切除療法などがあります。また、ピーコさんのように腫瘍が大きな場合や、緑内障などの合併症併発例では、眼球摘出を行うこともあります。

中程度までの腫瘍(腫瘍径16 mm以下、腫瘍厚8 mm以下)は、北米の大規模臨床試験で小線源治療と眼球摘出の生命予後が同等と証明されていますが、国内では腫瘍厚5 mmまでを小線源治療の適応としています。

小線源治療の適応外症例では、重粒子線治療(炭素イオン線、陽子線)を考慮します。小線源治療後の再発、厚みの少ない腫瘍では経瞳孔温熱療法を行います。周辺部の限局腫瘍は経強膜的腫瘍切除、後極の限局腫瘍では経硝子体腫瘍切除を行う場合があります。

肝臓への血行性転移が多く、10年以上経過して転移することもあり、長期間の全身検索が必要となります。

大病を乗り越え、今では元気に仕事をなさっているようです。今後もお体には気をつけて、活躍なさっていただきたいと思われます。

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